こんにちは、ちゃむです。
今回の記事は『【お金の歴史】日本のお金の歴史を学ぶ~江戸時代~』です。
私たちは学校で【お金】について学ぶことをしてきていません。
そのため【お金】のことであなたは苦い思いをしたり、苦労をした経験がありませんか?
私たちにとってお金は身近な存在です。
ところが、私たちはお金について知らないことが多すぎる。
私たちは人生のどこかで【お金】と向き合う時間が必要でないかと思います。
そこで、【お金】について学ぶことにしました。
世の中には【お金】に関する情報はたくさんあります。
私自身でしっかりと理解をするならば、インプットだけでは理解しきれません。
アウトプットをすることで理解が深まります。
なので、学んだことを記事に書くことにしました。
そしてこの記事は自分に向けての記事です。
まずは【お金の歴史】を学びます。
今回は「日本のお金の歴史~江戸時代~」です。
なお、当記事の最後にそのほかの時代の【お金の歴史】の記事のリンクをまとめています。
目次
日本のお金の歴史:貨幣制度の統一

江戸時代に貨幣制度が統一されました。
江戸幕府が金・銀・銭(銅貨)の三貨の鋳造(ちゅうぞう)を命じ、全国通用の正貨としたのです。
これは三貨制度と言われる、金・銀・銭(銅)、3種の異なった貨幣からなる貨幣制度です。
三貨制度(さんかせいど)が用いられた期間は関ヶ原の戦いの直後(慶長5年(1600年)ないし慶長6年(1601年))から明治4年(1871年)の新貨条例が制定されるまでの270年間にも及ぶため、実際には江戸時代を(前後数年程度とはいえ)超えた期間に渡って使われたことになります。
江戸時代の期間は徳川家康が征夷大将軍に任命されて幕府を樹立した慶長8年(1603年)から、慶応から明治に改元された明治元年(1868年)とするのが主流の学説です。
慶長6(1601)年に慶長金銀貨を発行しました。
銭貨については、寛永13(1636) 年、三代将軍家光の時代に「寛永通宝(かんえいつうほう)」が造られています。
その後、寛文10(1670) 年に明銭(みんせん)の永楽通宝(えいらくつうほう)の流通が禁止され、貨幣制度は完全にわが国独自のものになりました。
硬貨の発行は、それぞれ金座、銀座、銭座と呼ばれる業者が担当しました。
金貨と銅貨は額面価値と枚数で価値を決める計数貨幣(けいすうかへい)。
※計数貨幣とは一定の形状・品位・量目を持ち、表面にその価値を示す数字あるいは刻印が施され、それによって数字または刻印に示された貨幣価値を保証された貨幣のこと
銀貨は18世紀半ばまで含有率と重量で価値を決める秤量貨幣(しょうりょうかへい/ひょうりょうかへい)でした。
日本のお金の歴史:江戸時代の硬貨
江戸時代の金貨、銀貨、銭貨(銅貨)について説明します。
金貨

金貨には大判、小判、一分判(いちぶばん)の3種類がありました。
大判は、大名や旗本など特権身分の贈与(ぞうよ)や賜与(しよ)、多額の支払い用の金貨でした。
実際には、小判と一分判がよく使われました。
小判の形は楕円形。
一分判の形は長方形をしており、小判の4分の1に相当しました。
金貨の単位は両、分(ぶ)、朱(しゅ)があり、1両=4分(ぶ)、1分=4朱の4進法でした。
金貨の鋳造は小判師が原判金を鋳造し、それを御金改役後藤(おかねあらためやくごとう)が検査して刻印を打って完成としていました。
この方法を手前吹(てまえぶき/てまへぶき)と呼んでいました。
銀貨

銀貨は丁銀(ちょうぎん)が主体で、ほかに大小さまざまな豆板銀(まめいたぎん)がありました。
銀貨を発行する銀座は、幕府に許可された銀座人が発行と経営、吹所(ふきしょ)の大黒常是(だいこくじょうぜ)が鋳造と刻印を担当しました。
銀貨の単位は貫(かん)、匁(もんめ)、分(ふん)があり、1貫=1000匁、1匁=10分でした。
銭貨(銅貨)

銅貨は小額取引用で、庶民にもっとも使われました。
安土桃山時代に織田・豊臣政権が鐚銭(びたせん)を基準銭としていましたが、江戸幕府もこれにならって慶長の幣制で鐚銭を基準銭としました。
江戸幕府による本格的な銅貨鋳造および全国的な流通にいたるのは寛永通宝発行以後となりました。
田沼意次が老中の時代におこなった改革では、それまで1文銭のみだった寛永通宝に4文銭が加わりました。
銅貨の単位には文(もん)があり、1貫文=1000文でした。
日本のお金の歴史:江戸時代の紙幣
江戸時代になり、日本で初めて紙幣が発行されました。
江戸時代の紙幣について説明します。
羽書(はがき)

現存する日本最古の紙幣は、伊勢国(いせのくに)で発行された山田羽書(やまだはがき)です。
羽書(はがき)という語の由来は、小額貨幣を指す端書(はしがき)からとされています。
伊勢国は伊勢商人でも知られる商業の活発な地域であり、秤量貨幣である銀の取引の煩雑(はんざつ)さや、釣銭用の銅貨の不足を解決することを目的として山田羽書が発行されました。
山田羽書は秤量銀貨の預かり証として発行されて伊勢神宮の宗教権威により流通して、紙幣として普及が進みました。
羽書のように藩領や旗本領以外で発行された紙幣は私札とも呼ばれています。
私札には発行者によって公家札・寺社札、町村札、宿駅札、鉱山札、私人札などがありました。
藩札、旗本札
大名領国では、藩札(はんさつ)と呼ばれる紙幣が発行されました。
藩という呼称は明治維新以後に普及したものであり、当時は札、鈔(しょう)、判書という具合に呼ばれました。
初めての藩札は備後福山藩(現在の広島県福山市周辺)から発行されています。
藩札の発行目的の多くは、藩財政の窮乏対策でした。
旗本が治める知行地(ちぎょうち)では、藩札と同様の目的で旗本札が発行されました。
※旗本とは、200石(200俵)以上、1万石未満の将軍直属の家臣で、将軍に拝謁(はいえつ)する日や年賀節句など将軍が臣下や家来の前に姿を見せる儀式に参列することが許されている者
※知行地とは、幕府から旗本が与えられた土地のこと
江戸時代後期までの藩札は銀立てによる銀札が多く、特に銀遣いの西日本で流通しました。
1707年(宝永4年)には前年に改鋳(かいちゅう)された宝永銀流通促進のため、幕府は札遣いの禁止を出して紙幣は流通停止としました。
この禁止令は、改鋳で新たに発行する質の低い銀貨と藩札が競合することを避けるためとされています。
札遣いの禁止は、1730年(享保15年)の解禁まで続きました。
江戸時代の庶民は金貨や銀貨を目にする機会が少なく、実際によく用いた貨幣は銅貨と紙幣だったという説もあります。
日本のお金の歴史:江戸時代の貨幣の改鋳(かいちゅう)

改鋳とは、市場(しじょう)に流通している貨幣を回収してそれらを溶かし、金や銀の含有率や形を改訂した新たな貨幣を鋳造し、それらを改めて市場に流通させることです。
経済の拡大にともない、貴金属の産出の減少と通貨の流通不足が起き、幕府財政の悪化が深刻化しました。
このため幕府では金銀貨の改鋳が行われました。
改鋳のたびに硬貨の金、銀の含有率が低下していったのです。
そのため金貨と銀貨の名目貨幣化が進みました。
※名目貨幣とは、経済活動で用いられている貨幣の種類である。
貨幣そのものには実用的な価値は存在せず、法律により強制的に価値をつけられ売買に使用されるようになっているものである。
現在の日本ではお札が名目貨幣になる。
名目貨幣に対し、金貨や銀貨のように物質そのものに価値があり、取引に使用されている貨幣のことを実物貨幣という。
江戸幕府による改鋳は、含有量が異なる金属貨幣を同じ価値として扱うことで、富裕層が隠し持っている金銀貨を投資に向けさせ、貯蓄への課税と同様の効果を目的としたという評価もなされています。
しかし、含有率を下げる改鋳は貿易相手国のオランダ、中国、朝鮮、琉球の反発をまねいたため、幕府は貿易用の貨幣を発行したり、金銀から銅による決済への切り替えを進めました。
日本のお金の歴史:江戸時代後期の地方貨幣

地方貨幣とは江戸時代に各藩により、原則として領内通用として発行された貨幣のことです。
本来地方貨幣は存在するべきものではないのですが、江戸時代前半には小判の通貨体系としての「両」の基となった、武田信玄による甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)の領国貨幣を引き継いだ甲州金に限り領内通用を条件に発行が認められていました。
しかし、江戸時代後期には幕府の許可を得ない各藩による密鋳が横行しました。
※密鋳とは幕府の許可なく貨幣をつくること
天明4年(1784年)に起こった天明の大飢饉を契機に領内救済を理由に、同年11月に仙台藩(現在の宮城県)が幕府に鋳造を申し出、許可を取り付けた仙臺通寳(せんだいつうはん)を始め、安政3年(1856年)11月に日米和親条約に伴う開港を機に発行の許可を取り付けた箱館通寳(はこだてつうはん)が存在しました。
地方貨幣の発行は文久年間から幕末に集中しており、海防充実などの幕府事業の各藩への転化、一揆などの騒動対策による藩財政の逼迫(ひっぱく)、地方において銭貨(せんか)が非常に少なくなったこと、藩札の信用低下による金属貨幣の発行、幕府の権力低下による各藩独立体制の進化、および朝廷による貨幣の製造を命令する公文書の公布などが理由として挙げられます。
東北地方は度重なる冷害、飢饉にあえいだ一方で鉱山が多く金属資源は豊富であったことから、幕末期に盛岡藩(現在の岩手県中部から青森県東部)および久保田藩(現在の秋田県)を中心に銀判および當百文銅銭(とうひゃくもんどうせん)および鉛銭(なまりせん)など、数多くの貨幣が密鋳されたのですが、幕府には既にそれを取り締まる力はありませんでした。
地方貨幣で広く流通したと考えられるのは仙臺通寳(せんだいつうはん)、箱館通寳(はこだてつうはん)、秋田鍔銭(あきたつばせん)、秋田波銭(あきたなみせん)および琉球通寳(りゅうきゅうつうはん)ぐらいです。
また藩札および旗本札なども地方貨幣の部類に入り、これらは広く流通し特に銀札は江戸時代後期に流通高が減少した丁銀などの秤量銀貨の代役を務め、銀目取引の主導権を握りました。
日本のお金の歴史:開港による貨幣交換比率の問題

出典:Wikipedia 万延二分判(止め分/称明治二分金)
幕末の開港により、通商条約を結ぶうえで貨幣の交換比率が問題となりました。
幕府とアメリカ総領事タウンゼント・ハリスの交渉では、貿易取引専用に発行された銀貨であるメキシコドルと日本の天保一分銀が、ドルにとって有利な重量交換で行われることが決まり、日米修好通商条約が締結されました。
日本では鎖国により金と銀を比較した価格の差が少なかったのですが、欧米ではその差が大きかったため、日本の金を海外へ持ち出せば大きな利益を得ることができたのです。
このため横浜港開港によって、外国の貿易商はドルを一分銀に交換したのちに一分銀を小判に換え、半年で30万〜40万両ともいわれる大量の金が日本から流出しました。
幕府は万延(まんえん)の改鋳で金貨の引下げを行い、万延小判と万延二分判が発行しました。
万延小判の鋳造が少数だったのに対し、万延二分判が大量に発行されたことにより、金含有量の劣る万延二分判が流通しました。
この二分判も諸藩による偽造が横行して、さらに数種類もの貨幣が存在することになりました。
非常に複雑な流通となったために諸外国の反発を買い、改税約書によって江戸幕府はこれ以上の改鋳をしないことや、将来的な通貨改革と金銀地金の持込によって本位貨幣を発行する自由造幣局の設立を約束させられたのです。
※改税約書とは1858年(安政5年)に江戸幕府がアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスのそれぞれの国との間に結んだ不平等条約である安政五カ国条約の内容を改訂した協定
※自由造幣局は現在の独立行政法人造幣局のことである
そして明治政府もこれを継承することになります。
まとめ

江戸時代のお金の歴史のまとめです。
江戸時代に貨幣制度が統一されました。
三貨制度と言われる、金・銀・銭、3種の異なった貨幣からなる貨幣制度です。
江戸時代になり、紙幣が発行されるようになりました。
しかし、発行された紙幣は幕府が発行したものではありませんでした。
紙幣は私札と呼ばれ、藩領や旗本領などで発行されたものでした。
硬貨はたびたび改鋳がおこなわれました。
改鋳のたびに硬貨の金、銀の含有率が低下しました。
江戸時代後期には地方貨幣と呼ばれる、地方の藩の中で利用される硬貨が作られるようになりました。
地方貨幣は幕府から許可を得たうえで作られるものでしたが、中には幕府の許可を得ずに硬貨を偽造する藩もありました。
幕末に開港をし、外国と貿易をするようになりました。
しかし、江戸幕府は貿易をする国々と不平等条約を交わしたことにより、日本から外国へ金貨が大量に輸出されることになりました。
日本国内の貨幣流通が複雑になり、貿易相手国から反発を受け、安政五カ国条約の内容を改訂した協定である改税約書を交わすことになりました。
これにより、外国との貨幣の交換比率が改善されました。
以上が江戸時代の貨幣についてのまとめです。
【お金】の歴史を学ぶと日本の歴史も関わってきます。
【お金】の歴史を学ぶことは、日本の歴史について新たな気づきを得ることにつながります。
今回の記事は以上で終わります。
ありがとうございました。
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