こんにちは、ちゃむです。
今回の記事は『【お金の歴史】日本のお金の歴史を学ぶ~旧石器時代から安土桃山時代まで~』です。
私たちは学校で【お金】について学ぶことをしてきていません。
そのため【お金】のことであなたは苦い思いをしたり、苦労をした経験がありませんか?
私たちにとってお金は身近な存在です。
ところが、私たちはお金について知らないことが多すぎる。
私たちは人生のどこかで【お金】と向き合う時間が必要でないかと思います。
そこで、【お金】について学ぶことにしました。
世の中には【お金】に関する情報はたくさんあります。
私自身でしっかりと理解をするならば、インプットだけでは理解しきれません。
アウトプットをすることで理解が深まります。
なので、学んだことを記事に書くことにしました。
そしてこの記事は自分に向けての記事です。
まずは【お金の歴史】を学びます
今回は「日本のお金の歴史~旧石器時代から安土桃山時代まで~」です。
なお、当記事の最後にそのほかの時代の【お金の歴史】の記事のリンクをまとめています。
目次
日本のお金の歴史~旧石器時代から安土桃山時代まで~【概要】

最初に旧石器時代から安土桃山時代までのお金についての概要を時代ごとにお伝えします。
旧石器時代・縄文時代
旧石器時代から縄文時代は物々交換がおこなわれていたが次第に物品交換に移り変わっていった
弥生時代・古墳時代
・弥生時代には物品交換がおこなわれていた
・弥生時代に中国から硬貨が入ってきていたが、貨幣として使われていなかった
飛鳥時代
・667年-672年に日本最古の貨幣といわれている私鋳(しちゅう)銀貨の「無文銀銭(むもんぎんせん)」が発行された
・683年に「富本銭(ふほんせん)」が作られた。「富本銭」が政府が発行した最古の貨幣とされている。
・708年に「和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)」が作られ発行された
平安時代
・「和同開珎」発行以降、朝廷は12種類の銅貨を発行
・760年に日本最古の金貨である「開基勝宝(かいきしょうほう)」が発行される
・度重なる銅貨の発行と発行された銅貨の質が次第に悪くなり、民衆から銅貨の価値と信頼が失われていった
・958年の「乾元大宝(けんげんだいほう)」発行以降、朝廷は硬貨の発行を停止
鎌倉時代
・幕府や朝廷による貨幣の発行は行われなかった
・中国(当時:宋)との貿易で宋銭が流入し、使用されるようになる
室町時代
・室町時代も幕府や朝廷による貨幣の発行は行われなかった
・中国(当時:明)が日本からの使節に銅貨を贈ることをやめたため、足利義政の時代には輸入銭を得られなくなった
・輸入銭を参考として日本国内で銅貨の模造が始まる
・金山と銀山の開発がすすみ、領国貨幣が戦国大名により作られるようになる
安土桃山時代
・豊臣秀吉が1587年に「天正通宝(てんしょうつうほう)」、1592年に「文禄通宝(ぶんろくつうほう)」を発行
・1588年に「天正長大判(てんしょうながおおばん)」、「天正菱大判(てんしょうひしおおばん)」が作られた
・しかし、庶民が最も使う小額貨幣の銅貨は発行しなかった
以上が 旧石器時代から安土桃山時代までの時代ごとのお金についての概要です。
【日本のお金の歴史】旧石器時代~古墳時代

ここからは「日本のお金の歴史」について説明していきます。
金取遺跡(かなどりいせき)で石器が出土されたことから、10万年前に日本列島に人類がいた痕跡があることが判明しています。
それ以降、時代が進むにつれて日本に住んでいた人々の間で、物々交換がおこなわれるようになっていきました。
縄文時代に稲作が伝わり、稲作がおこなわれるようになりました。
しだいに物品交換がおこなわれるようになっていったと考えられています。
物々交換と物品交換については当ブログのこちらの記事に書いています。
『【お金の歴史】「世界のお金の起源」と「お金の3つの機能」を学ぶ』
弥生時代には物品交換がおこなわれていたことが判明しています。
この時代の物品貨幣は、米、布、絹などが使用されていました。
弥生時代の遺跡から中国の硬貨である半両銭や五銖銭(ごしゅせん)が見つかっていることから、弥生時代には中国から硬貨が入ってきていました。
半両銭や五銖銭(ごしゅせん)は青銅器の原料や祭祀(さいし)に用いられていたとされています。(注:祭祀とは神や祖先をまつること)
現在の長崎県壱岐市の「原の辻遺跡」で五銖銭(ごしゅせん)が出土しています。
「原の辻遺跡」は港をもつ交易地であることから、青銅器の原料のほかに交易で貨幣として流通していたとする説もあります。
【日本のお金の歴史】飛鳥時代~平安時代
飛鳥時代から日本で硬貨が作られ発行されるようになりました。
日本で作られた金属貨幣で、現存する最古の銀貨は667年-672年に発行された「無文銀銭(むもんぎんせん)」、最古の銅貨は683年の「富本銭(ふほんせん)」、最古の金貨は760年(天平宝字4年)の「開基勝宝(かいきしょうほう)」です。
「無文銀銭」は飛鳥時代の667年-672年に発行され、日本最古の貨幣といわれている私鋳(しちゅう)銀貨です。
日本で作られた最古の貨幣ですが、政府が公(おおやけ)に発行した貨幣と認められていません。
そのため、私的に偽造された銭とされています。
667年-672年は現在の滋賀県大津市に朝廷が移された時代です。
この時代は朝廷に対し民衆や豪族などから不満があったとされています。
そして、672年に壬申の乱が起こり、近江朝廷が滅びました。
近江朝廷があった周辺で 「無文銀銭」が出土していることから、製造されていたことは間違いありません。
ですが、「無文銀銭」 について正式な記録が残されていないために政府が公に発行した貨幣と認められていないのです。
「富本銭」は683年(飛鳥時代)に作られました。

「富本銭」が政府が発行した最古の貨幣とされています。
無文銀銭や富本銭は、厭勝銭(ようしょうせん)であったか、流通していたかについては論争が続いています。(注:厭勝銭とはまじない用の銭のこと)
708年(飛鳥時代)に「和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)」が作られ発行されました。

「和同開珎」は中国の「開元通宝(かいげんつうほう)」をモデルにしたとされており、日本で最初の流通貨幣と言われています。
「和同開珎」が発行された708年から平安時代の958年にかけての250年間に12種類の銅貨が発行されました。
朝廷が発行したことから「皇朝十二銭」と呼ばれました。

出典:Wikipedia 皇朝十二銭と関連銭貨(開基勝宝は模造)
発行年は以下の通りです。
貨幣名 | 発行年 |
和同開珎 | 708年(和銅元年) |
万年通宝(萬年通寳) | 760年(天平宝字4年) |
神功開宝(神功開寳) | 765年(天平神護元年) |
隆平永宝(隆平永寳) | 796年(延暦15年) |
富寿神宝(富壽神寳) | 818年(弘仁9年) |
承和昌宝(承和昌寳) | 835年(承和2年) |
長年大宝(長年大寳) | 848年(嘉祥元年) |
饒益神宝(饒益神寳) | 859年(貞観元年) |
貞観永宝(貞観永寳) | 870年(貞観12年) |
寛平大宝(寛平大寳) | 890年(寛平2年) |
延喜通宝(延喜通寳) | 907年(延喜7年) |
乾元大宝(乹元大寳) | 958年(天徳2年) |
「和同開珎」以降に発行された銅貨は銅の含有率が低下し、代わりに鉛の含有率が増えていきました。
理由は当時の日本は銅の製錬技術が低く、日本で産出される銅を製錬できず、銅が不足していったためです。
度重なる銅貨の発行で硬貨の価値と信用が低下し、流通の減少が止まらず、民衆の銭離れが起こりました。
958年の「乾元大宝」発行以降、朝廷は硬貨の発行を停止したのです。
朝廷が硬貨の発行を停止してから、京都周辺より東の国々では絹や布、西の国々では米を中心とする物品貨幣が流通しました。
760年に日本最古の金貨である「開基勝宝」が発行されました。
「開基勝宝」は鋳造数が極少数で、質量のばらつきが大きかったため、流通貨幣として不適格でした。
平安時代の中期から戦国時代にかけての硬貨の普及は、中国からの銅貨がきっかけとなりました。
中国(当時:宋)との貿易で宋銭が流入し、使用されるようになったのです。
【日本のお金の歴史】鎌倉時代~安土桃山時代

鎌倉時代から南北朝・室町時代にかけて幕府や朝廷による貨幣の発行は行われませんでした。
鎌倉時代に、幕府が宋銭の使用を禁じたこともありましたが、次第に使用を認めるようになりました。
室町時代になり、中国(当時:明)から流入していた銅貨は「永楽通宝(えいらくつうほう)」「洪武通宝(こうぶつうほう)」でした。
しかし中国(当時:明)は日本からの使節に銅貨を贈ることをやめたため、足利義政の時代には輸入銭を得られなくなったのです。
輸入銭によって硬貨の流通が増えるにともない、絹、布、米に代わって銅貨で年貢を納める代銭納(だいせんのう)が広まり、特に京都周辺より東の国々において普及しました。
代銭納によって金属貨幣の普及と商品流通が活発となり、輸入銭だけでは不足する事態となりました。
そのため室町時代から輸入銭を参考として日本国内で銅貨の模造が始まりました。
民間で発行された銅貨は私鋳銭(しちゅうせん)や模鋳銭(もちゅうせん)とも呼ばれ、各地で流通しました。
室町幕府や大名は日本産の銅貨を輸入銭と区別して、日本新鋳料足(にほんしんちゅうりょうそく)、日本銭(にほんせに)、地銭(じぜに)、京銭(きんせん)、無文銭(むもんせん)、和銭などと呼んで使用の禁止や制限を行ったのです。
民間発行の硬貨には粗悪なものもあり、鐚銭(びたせん、びたぜに)とも呼ばれて悪貨として扱われました。
戦国時代に入り、戦国大名は戦費調達に多額の資金を必要とするようになりました。
そのため、小額貨幣である銅貨は用途に適さなかったのです。
そこで金山と銀山の開発がすすみ、領国貨幣が戦国大名により作られるようになりました。
16世紀に日本に伝わった灰吹法(はいふきほう)と呼ばれる精錬技術の普及が、金銀の産出量に大きな影響を与えました。
戦国大名のなかには、甲州金と呼ばれた金貨を流通させた武田信玄、加賀小判や軟挺銀(はいぶきぎん)を発行した加賀前田氏なども現れました。
戦国時代、戦国大名は貫高制(かんだかせい)と呼ばれる税制度のもとで、農民に貨幣での納税を求めたため、農民の負担は荘園制の時代に比べて増しました。
農民は穀物を現金に変える必要がありましたが、地元の市場は大名らの管理のもとにあったため、農民に有利な価格での販売が困難でした。
そのため、農民の年貢減免を求める紛争や、欠落(かけおち)と呼ばれる逃亡の増加を招いたのです。
安土桃山時代になり、全国を統一した豊臣秀吉により、貫高制から石高制(こくだかせい)への切りかえがすすめられました。
各地の大名も貫高制は農民の離農や欠落を招く恐れがあることから、封建制度の維持のために年貢を米で納めさせる政策をとるようになったため、石高制の成立がすすみました。
こうして農民は年貢を米で納めるようになったのです。
豊臣秀吉は金や銀を素材として、1587年に「天正通宝(てんしょうつうほう)」、1592年に「文禄通宝(ぶんろくつうほう)」を発行して贈与や褒賞用に使いました。
1588年に「天正長大判(てんしょうながおおばん)」、「天正菱大判(てんしょうひしおおばん)」が作られました。
「天正長大判」は世界最大級の大判です。
天正通宝の銭貨の発行は「皇朝十二銭」の乾元大宝(958年)を発行して以来でした。
しかし、庶民が最も使う小額貨幣の銅貨は発行しませんでした。
まとめ

今回は旧石器時代から安土桃山時代までの日本のお金の歴史について書きました。
流れをまとめると
物々交換
↓
物品交換
↓
日本で作られた硬貨と物品貨幣の併用
↓
中国からの輸入銭と物品貨幣の併用
↓
日本で作られた銅銭と物品貨幣の併用
↓
日本で作られた金貨、銀貨、銅貨を使用
となります。
【お金】の歴史を学ぶと日本の歴史も関わってきます。
【お金】の歴史を学ぶことは、日本の歴史について新たな気づきを得ることにつながります。
今回の記事は以上で終わります。
ありがとうございました。
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〈参考・引用〉
・日本の貨幣史ーWikipediaー
・日本の貨幣の歴史ー独立行政法人造幣局ー
・日本史年表ー歴史まとめ.netー